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書道における「見る眼(鑑賞眼・審美眼)」の鍛え方【3選】

書道における「見る眼(鑑賞眼・審美眼)」の鍛え方【3選】

(書ける人には何が見えているのか。)

書家

書家
片岡 青霞
プロフィール


 “この線、いい線だね。”とある日のお稽古にて師匠が口にしたこの言葉。これの一体どこがいい線なのだろうかと頭を悩ましたそんな経験をしたことがある人はいるだろうか。また、数ある作品の中から墨汁と固形墨で書かれた作品を言いあてられたり、ほとんどの人には同じ黒色にしか見えていないものであったとしてもしっかり見抜かれたことはないだろうか。はたまた、自宅で書いているところを見られていた訳ではないのに、書き込みのおおよその枚数を言いあてられたりなどと列挙すればきりがないが、自ら伝えていないことに対しても言いあててくる師匠たち。ここで疑問に思うことは、同じものを見ているはずなのになぜ師匠にはそれがわかり、自分には見えないのだろうかということではないだろうか。もしかしたら師匠には超能力でもあるのかと思うようなことが続き、やや怖いと感じたことがある人もいるかもしれない。師匠の前では全て見透かされた状態であり、誤魔化しは一切通用しない。同じものを見ているはずなのに、見えているものが異なるのは一体なぜなのか。また、同じように見えるようになるためにはどのようにすればいいのだろうか。今回は、見る眼(鑑賞眼・審美眼)の鍛え方について触れてみたいと思う。

見る眼が優れている人のみに起こる現象

眼を鍛えるためには、より良いものに触れて見る必要がある。by Pexels

 現在、見えていなくても、同じように自分にも見えるようになるのだろうか。先に結論を述べると、見る眼(鑑賞眼・審美眼)は鍛えることによって見えるようになるということが言える。たとえ今はそんな兆しを全く感じることができない方であったとしても、より良いものの見る回数や経験を増やしていくことで少しずつ見えなかったものが見えるようになる。

芸術には、必ずと言っていいほど「鑑賞」がセットになっている。例えば、絵を描いている人であれば単に「絵」だけを描いているのかといえば決してそうではない。自宅で絵を描いたり、教室でのお稽古時間は普段の手習いとなるが、その他に美術館に足を運び人の絵を鑑賞したりすることで自身の学びを深め心を豊かにする時間をもうけている。あたり前の話と言えばそうかもしれないが、なぜか書道となると自宅でただ書いてさえいれば上達すると思っている人がいるのだから驚くばかりである。自宅と教場のピストン運動が最も楽(ラク)だと師匠はおっしゃった。書道はそんなに簡単ではない、私も同意見である。

ニューネンの農家(フィンセント・ファン・ゴッホ)農民を描くには、自らが彼らの一員であるかのように、彼らと同じように感じ、考えるように描かねばならない。テオ宛、ニューネン、1885年4月30日頃。


絵を描いている人は、腕を使って絵筆で描いているが、最初の導入の部分から考えるとこれは間違いなのかもしれない。風景画を描くのであれば、まず自らの「眼」で見てどの部分を描くかを決める。眼に映し出されたものが脳へと伝わり指令を出す。脳から腕をつたって筆から紙面へ。眼に見えた形となるまでに辿る工程は、眼→脳→腕→筆→紙面の順番となっている。最初の導入は眼にあり、眼で見たものが反映されていることがわかる。このように考えてみると、自分の眼の中に普段から何を入れるかが非常に重要になるということがおわかりになるのではないだろうか。絵を描くのだから絵が上手な方はきっと器用で、筆の扱いが素晴らしいかと思う。もちろんそれも一つだが、それ以上に眼が鍛えられているからこそ生まれる作品があるのではないだろうか。

見る眼(鑑賞眼・審美眼)が優れている人というのは、書かれている書や作品だけを見て優れていると言っているのではない。見る眼をもちあわせている人というのは、人が気づかない人の小さな変化により早く気づく傾向がある。例えば、いつもお稽古場に入室する時の生徒さんの表情や声のトーンの違い、体調の変化。書いているものの変化。退塾する数ヶ月前に見せる仕草など。本人は気づいていなくとも、人よりも敏感に察知するため人が思っていること考えていることが透けて見えてしまうようなそんな感覚さえある。これがいいことに働く時もあれば、そうでないこともあるため時に悩ましいことと思うかもしれないが、見る眼が優れている人は人よりも多くのことを察知して感じとる傾向がある。それでは、書道における見る眼(鑑賞眼・審美眼)はどのようにすれば鍛えることができるのだろうか。3つ紹介をしてみたいと思う。

①古典法帖の観察

乙瑛碑

 書道における見る眼(鑑賞眼・審美眼)の鍛え方として最も重要なものが、古典法帖を見ることにある。古典法帖は、先人が残してくれたものであり、わたしたちが書を学ぶ上においては欠かせないものとなっている。これからどんなに時代が進化しても、先人方を超えられる人が出てこないことを考えると、わたしたちに残されたものはもうこれしかないと言える。

ここで、見ると言っても何を見ればいいのかという疑問が湧いてくるかもしれないが、それは良いものを見る必要がある。では、良いものとは何かと問われれば、「古典法帖」のことを指している。古典法帖を見ることで、眼慣れをさせる必要がある。古典法帖の中には、石碑の拓本により文字が潰れているものやキズがついており不明瞭なものも多々ある。最初はこれが線なのか、はたまた文字の一部なのかわからないことがほとんどかもしれないが、自らの眼で見る回数を増やすことで少しずつ違いがわかるようになってくる。臨書の際の墨スリの時に古典法帖を見る時間をもうけてみよう。わからないからと言って見ないのではなく、わかるようになるために見続けることが大切である。ある時、これまで見えなかったものが急に見えるようになるという現象が起こる。眼を慣れさせよう。

②書道展覧会の鑑賞

第63回 栃木県書道連盟会員展

 自宅や教場では書くが、それだけでは見る眼を鍛えることは難しい。書道は線活動のため、いい書線を見て鑑賞する必要がある。自宅と教場で自分の書いたものばかりを目にしている人の伸びしろが乏しいのは、自分の書いた線ばかりを目にしているからと言える。展覧会や公募展の案内をすれば、必ず見に出掛ける人がいる一方で、自分は出品していないから関係ないからという理由で一切会場へ足を運ばない方もいる。このような方はいつまで経っても見る回数が増えないため、書の年数はそれなりであったとしても、見る眼(鑑賞眼・審美眼)が一向に育たない。見えないということは、すなわち書けないということを意味している。なぜなら、書道を書くにあたっての最初の行為は先にも述べた通り、わたしたちの眼からはいるためである。この見るという行為を軽視してはいけない。見たものが内在され紙面に出てくる。自分のものだけを見ていて伸びたら、それこそまさにミラクルである。

③臨書や作品制作に臨む

書道の作品集

 古典法帖や書道展覧会で人の書かれた作品を鑑賞したら、次に実践の場として書くことが必要になる。良いものを見て眼を鍛えながら書くという行為を共にすることで成長が加速する。見ているだけではダメだし、ただ書いているだけでもダメである。「見る」と「書く」のこの両方が揃ってはじめて書の学びとなる。
見る眼(鑑賞眼・審美眼)を鍛えるためには、他にも作品集を見るという方法がある。作品を書かれている人なら誰もが数多くの個人の作品集をもちあわせているかと思うが、先人の作品集を見ることで自身が書く作品の新たな発想や構想、線質を見て学ぶことができる。中には、作品集を見ても自身の作品制作におけるヒントは何もなく全く気づけないという人もいるが、それは見る眼(鑑賞眼・審美眼)がまだまだ弱いということを意味しているに他ならない。見える人というのは、より多くの気づきと発見をすることができる。古典法帖を見て眼を鍛えていこう。

今回は、書道における見る眼(鑑賞眼・審美眼)の鍛え方を3つ紹介してみた。古典法帖、書道展覧会、実践(臨書・作品制作)のどれもが大切ではあるが、まずは古典法帖を見ることからはじめてみよう。師匠の言葉がわからないのであれば、今よりも自身の眼を鍛え、少しでも言葉の意味がわかるようになろう。ますます書が面白くなる。

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