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書初め展が廃止された学校の驚くべき理由とは

書初展

書初め展が廃止された学校の驚くべき理由とは
(学校行事は、誰の何のために開催されるのか。)

書家

書家
片岡 青霞
プロフィール


 子どもたちの冬休みの宿題の定番でもある書初め。わたしが幼い頃は書道を習っているいないに関わらず、全員が宿題の対象としておこなっていたが、今では必ずしも全員参加ではなく選択制になっているところや、地域によってはそもそも書初め展が最初からないような学校もある。ある時SNSを見ていると、書初め展が廃止になった学校の投稿が流れてきた。廃止になった理由は、伝統を軽んじたからではないという。果たしてどのような理由や原因によって、これまで開催されてきた書初め展が無くなってしまったのだろうか。今回は書初め展が廃止になった学校の事例を紹介してみようと思う。

「字、やばくない?」書道作品を見て、いじる子どもたち

子どもの何気ない一言のはずが、思わぬ大きな事態へ発展してしまった学校の実例。Photo by Photo AC

 これまで開催されてきた書初め展が廃止になってしまった学校の理由とは、一体どのようなものなのだろうか。それは、書初め展を廊下に張り出すと字の下手な子がどうしても目立ってしまうようで、その作品を見て「字やば。」「これ、誰?」との発言をする子どもたちがいるのだという。いじりやいじめに繋がりかねないものがあったために書初め展を廃止にしたというものであった。評価されるのはいつも同じ生徒さんで金賞の作品が堂々と展示されているという。見せ方を間違えると人権に関わることになるということが議論をされ、結果展示の取りやめが決まったという内容のものであった。書初め展そのものが悪いということではなく、努力よりも才能が前に出てしまうことに関しても触れていたのだが、これらの投稿に対して実にたくさんの反響の声が寄せられていた。また、伝統は続けることが目的ではなく、誰のための行事なのかということに対して問い直すことも大切だということが述べられていた。学校行事が誰のためのものかと言われたら、子どもたち自身の成長や教育的観点において学校側が考え取り入れていると考えているが、書初め展がそのようなものではなくなってしまったために廃止になってしまったという。

ここまでの内容を読んでみて、あなたはどのように感じただろうか。より中身について考えてみよう。

あれもダメ、これもダメな教育現場

教育現場に限らず、ここ数年でさまざまな分野で規制が強化された。テレビがつまらない、面白くない、だから見ない。若者のテレビ離れには十分すぎる理由が揃っている。photo by Photo AC

「保護者の方からこんな意見が出たために辞めます。」

 時代の移り変わりと共に、学校側と保護者の方の立場に大きな変化を感じざるおえない世の中になったように感じている。中には、意見ではなく単なるクレームやモンスターペアレントも混在しているケースもあるが、昔と異なり学校側も大きな問題になることを恐れているため、穏便に事をすませたいと考えているところも多い。これは、学校だけではなく塾、習い事、他の施設においても同様のことが言える。筋が通る話なのであれば納得できるが、そうでないにも関わらず全てにおいてYESでいることに対しては甚だ疑問を感じている。これを野放しにすることで、自分の意見は全て通ると勘違いを起こす大人が増えてしまうことに繋がりかねないためである。

今回の書初め展に関してもその傾向が感じられるが、そもそも論点がズレているように思える点がある。学校ではさまざまな展示物や行事がある。書道の作品がダメなのであれば、図工の絵画や版画ももちろんダメになる。絵にも上手い下手があるのでこちらも廃止の対象となる。運動が得意な子もいればそうでない子もいるので、運動会や体力テストも廃止になる。舞台で演じる表現を得意とする子もいれば苦手な子もいるので学習発表会も廃止。書初め展だけに限らず、全てが廃止になる。

このように述べると、さすがにそんな風にはならないと誰もが思うはずである。そう考えると書初め展が悪いのでも展示に問題があるのでもなく、議論すべき点はもっも別にあるのではないだろうか。本質は、人の作品を見て悪口を言っている子どもたちへの教育を怠ったことにあり、書初め展が悪いのではないということである。本質の改善をしないとまた他で同じようなことな起こり、いつまでたっても問題を抱えることになる。このケースも学校側が一見対処したかのように見えるが、これでは表面的なことにすぎず何も解決はされていない。子どもたちの人に対する悪口への対応はしたのだろうか。クレームがあったために言われたままに書初め展を廃止にして、子どもたちへの悪口への教育がなされていないのであれば、学校の教育現場として教員も含め恥ずかしい対応の仕方だとさえ感じている。

書道は努力よりも才能なのか

 いつも同じ人が評価されていて、金賞が堂々と展示されている。毎年受賞が同じになるのは、その子が書道が得意で日々のお稽古に時間を割いており、書初め展においても一生懸命に作品書きを頑張っているからではないだろうか。どうしても受賞だけが目にとまるが、その子は普段から人一倍の努力をしているのかもしれない。背景まではわからないため創造力が乏しいと考えが及ばないかもしれないが、見えないところでの本人の努力が受賞へと繋がっていることを忘れてはいけない。

ましてや、上位賞ともなれば一つの作品で100枚越えの枚数を書いてくるような子どもたちの集まりなのだから、当然の結果とも言える。たかだか10〜20枚書いて、“練習しました、頑張りました。”と言っているのとは訳が違う。皆がそれぞれに得意なことが異なるのだから、得意な子が活躍できる場を残すことはとても大切なことだと考えている。生まれながらに書道の才能のがある子どもは限りなく少ないと(ほぼいない)思うべきで、ほとんどのケースは努力の賜物であると感じている。

書道が得意な子にとっては活躍の場がなくなってしまったため、とても残念な気持ちでいっぱいだと思う。自身も幼い頃を振り返れば学校の書道において活躍できる場があり、あの時のものがあったからこそ今に至っているのだと感じている。書初め展を開催していただけたことに感謝している。

教育すべきことは何か

書初め展へ向けて作品制作をする子どもたち。

 書初め展が廃止されたのは、書初め展が悪いわけではなく教育側の表面的で安易な問題解決のはかり方によるものであった。本来、子どもたちの悪口に対して行う本質的な教育や指導が行われず、まるで書初め展がよくないものであるかのような扱われ方となってしまったことにある。

学校とは何を学び、何をする場なのだろうか。学力でもある知識や技能だけを学ぶ場だけではなく、豊かな人間性や社会性を育み、子どもたちが大人になり社会へ出た際に必要な生きるために必要な力を身につける場であるべきではないだろうか。人と交流することで生まれる協調性や主体性を伸ばすことはさながら、一人ひとりの個性を伸ばすことは必要なことだと考えている。自分は何が好きで何が嫌いか、何が得意で何が苦手なのかを知ることは、大人になり社会人として仕事をする上においても大いに役立つことと考えている。

学校が教育を学ぶ場にも関わらず、教育がおこなわれていないとしたらそれはもはや学校としての役割りや機能を果たしていないことになると考えているがいかがだろうか。今一度、教育のあり方について議論が必要であり、これ以上おかしな方向へ進まないことを願っている。

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