なぜ書道では古典を学ぶ必要があるのか
(古典で臨書をする意義について考える)
書家
片岡 青霞
プロフィール
「書道の基本は古典にあるのだから、古典を学ばないといけないよ。」 書道を学んでいる方なら一度はこんな言葉を聞いたことがあるのではないだろうか。師がそう口にするのだからそういうものなんだと思っている人も多くいるかもしれない。では、なぜ書道では古典を学ぶのか。なぜ古典での臨書が書の学習に必要だと言われているのか。この「なぜ」に対する疑問に明確な答えを持ち合わせている人は如何程か。昇段級の世界で過ごしている人たちからすれば、書の歴史なんて学ばなくても書道はできる。書の歴史を学ばなくても知識や教養不足であったとしても書の手習いは成り立ってしまうのだから、尚更これらへの必要性を感じない。その結果、さらに書の歴史から遠のくこととなる。古典を学ぶということは臨書をすることに繋がるが、そもそも臨書はなぜ必要なのか。臨書を学ぶことで何を学習しているのか。古典臨書を学ぶ意義について考察する。
はじめて古典法帖を見た時の忘れもしない感情
書道を学ぶとは、古典学習をすることである。この言葉の裏を返せば古典を学んではじめて書を学んでいると言えるため、古典を学んでいない者は書を学んでいるとは言えない。書道業界ではこの認識が一般的となっている。では、なぜ書道では古典を学ぶ必要があるのか。なぜ古典臨書を学習しなくてはいけないのか。手習いをするには良いお手本を活用する必要があるが、その良いお手本とは古典法帖のことを示している。古典学習をすることで観察眼を鍛え筆遣いを習得する。その鍛錬によってはじめて自分の作品を世に生ませることができるためと考えている。
書道においては、法を学ばなくても書けてしまうため、世の中には法を学ぶ必要が無いと考える者もいる。筆を持つことができ、何かしらの文字を書くことができれば、たったそれだけで成立してしまうものとも言える。彼らは「自由」や「アート」という言葉表現を用いるが、これにはやや違和感を覚える。自由を成立させるにあたっても全ての物事には土台となるベースが備わっている。「自由」だけが独立してポッと出てくることは無い。書において自由の境地まで辿りつきたいのであれば、法の習得は必要最低限だと考える。法が使えない者ほど、「自由」や「アート」という言葉を用いてごまかしていないだろうか。それは、自由ではなく自己満足の世界ではないだろうか。書は筆を使用する。そうであるならば、筆が使用できるようになるということは必須ではないだろうか。古典学習をすることで筆法を学ぶことができる。古典を学ぶこととは、臨書をすること。臨書することは同じくして書の歴史を学ぶことへと繋がっている。
10代の頃、はじめて書道の古典法帖を目にした。同時に、古典法帖の素晴らしさを力説している先生を見てとても不思議に感じた。当時の私からは、古典法上の良さ美しさが正直なところ全く分からず、素晴らしいと言われるからそうなのかとただ首を縦に振ることしかできなかった。美しいどころかむしろ違和感しか感じない。この違和感は一体何なのか。はじめてのものを見せられ理解に苦しんだ結果、ストレスで不快にさえ感じたことを今でも鮮明に覚えている。これの何がどのように素晴らしいのか。私の感性が相当歪んでいるのか。とにかく負荷にしか感じず興味関心も沸くことはなかったため、書の歴史的背景を知りたいとさえ思わなかった。今思えば、いきなり古典法上を学ぶ前にやらなければいけないことがあったのではないかと思っている。なぜ書道で古典を学ぶ必要があるのか。その意味と意義は何か。古典を学ぶ目的と理由が曖昧なまま歩みはじめてしまったため、 自分の中で腑に落ちるまでに時間がかかってしまった。しかし、そんな人は世の中にたくさんいるのではないだろうか。
再現性を生む観察眼
なぜ古典を学ぶ必要があるのか。観察眼を鍛え、筆使いを習得することで、はじめて自分の作品を世に生ませるため。と述べた。この中の観察眼とは何か。古典を学ぶ上でなぜ書く作業よりも先に観察眼が先にあるのか。
観察眼とは、物事をよく観察する見識と能力のことである。 臨書とは、見て真似て書くことだが、書の最も最初の導入として筆を手にして書くことではないことがここでわかる。それよりも先に私たちは自身の眼を通して法帖を見るという作業をしていることに気づくことだろう。古き書の達人たちが残した古筆を自分の眼の中に映し出している。眼で見たものは自然と脳内の記憶へと移行する。その上で筆を取り書くという次の工程へ進んでいる。書道なので当然ながら書くという作業を主にしていくわけだが、書くという行為よりも私達が五感を通じて最も最初にしていることは、眼で見るということなのである。単に法帖を眼で見るだけでいいのであれば誰にでもできる。ここで言う眼を通して見るということは、頭を使って観察することを意味している。観察とは、物事がどのような状態であるのかを把握することにある。法帖を見てどのようなことを読み取ることができるだろうか。鋭い観察眼を持ち合わせた人間ほど人が気づくことのない多くのことを発見することができる。これは日常生活の中でも通じて同様のことが言える。
人は眼で見たものの光景をよくも悪くも脳裏に記憶する。眼で見たものが腕を通して書いたものとして紙面に出てくる。このことが腑に落ちれば、いい加減なものを自分の眼の中に入れようとはしないはずである。腕が立つ人間はこの点を徹底している。良くも悪くも再現してしまうことを知っているためと言える。
技量無くして、進歩無し
書道の古典を学ぶとなると誰もが書くことを一番に想像するが、ほとんどの人たちがこの観察する点を疎かにして、ただ闇雲に書いているということが現代の書道となってはいないだろうか。筆を持ち紙面に出てくるものは、良くも悪くもこれまで自分の眼の中に入れてきたものとなる。どんなものを眼の中に入れてきたのか。これまであなたは何を見てきたのだろうか。書道においてはどんな古典法帖を観察してきたのか。人生においてはこれまでどんな経験と体験をし、どのような景色や光景を見てきたのだろうか。古典学習をする意義とは、もちろん書けるようになるためということがある。筆を扱うことができるようになるということは必要不可欠な点であり、古典を通じて筆遣いを学ぶことは大切な要素となっている。これを「技量」と呼ぶ。
「 技量はある程度必要だが、 技量が絶対ではない。また、 全てでもない。それでも半分くらいはなかったらいい加減なものになっちゃうよ。」
以前、師からこんな言葉を聞いたことがある。“書道ブームで名前だけの有名人って「技量」無いでしょ。だから見れないんじゃなくて、見れたもんじゃないんだよな。” ボソッと放った言葉が的を射ていた。これは、書道に「技量」がなくていいなら誰にでもできるが、そうではないよね。ということを言われている。最低半分は腕を鍛えて磨いていかないと。そのために観察眼と技量の両方を鍛える必要がある。この二つを学ぶには良いお手本となる古典学習が最適だということである。古典を学ぶことで、筆の軸がずっと直立したまま書いていないことがわかったり、円運動を基軸とした動きを学べたり、筆が多面として使用できる唯一の筆記用具であることがわかる。古典法帖の中にはたくさんの技法が隠されている。ゲームで例えるなら、隠されたアイテムをゲットしていくようなものとも言える。アイテムを所有していないとクリアできないゲームの場面が存在するように、書道においても同様の場面が存在する。
もっとも息長く見ていられる作品
なぜ、書道では古典学習をするのか。臨書を通して何を学ぶのか。古典を学ぶ理由は、観察眼を鍛え、技量を磨き、自分で作品が書けるようになること。このステップを踏むために書道では古典を学ぶ必要があると考察する。
優れた作家は、 腕が良い以前に一様に観察眼が鋭い。誤魔化しや嘘をすぐに見抜くため、間違ってもそんな方を目の前にしていい加減に自分を取り繕うとしないことである。バレないだろう、分からないだろうと思った時にはすでにバレている時である。内面外面全てにおいて見抜かれていると心得るべきである。優れた作家は、古典臨書が自身の技量を磨き高めるために切っても切り離せない大切な存在であることを知っている。そのため古典を土台とした学習をしている。古典の学習だけで終える者もいるが、最終的には多くの人が世の中へ自分の作品を生み出すことを目的としている。観察眼と技量を携えて作品を書こうとするからこそ、少なからずとも 「作品」と呼べるものへと近づくことができる。人間が生み出す作品に完璧は存在しないが、 観察眼と技量の半分もないものは作品とは言い難い。同時に、完璧な作品はずっと見ていられない。上手で完璧なものほど飽きが早い。なぜなのだろうか。不思議である。それなら、一番の最高傑作とはどのようなものだと言えるだろうか。自身は鍛えられた人の未完成作品こそ最も息長く見ていられるものだと考慮している。その土台には古典がある。やはり書道においての古典は、切っても切り離せない大切な存在なのではないだろうか。