書人はなぜ書作品を書くのか
(人間の本能がもたらすもの。)
書家
片岡 青霞
プロフィール
子供から大人まで書道を学んだことがある方であれば、一度は展覧会や公募展へ向けて書作品を書き出品した経験があるかと思う。小さな町中で催されているものから大規模な全国公募展まで年間を通じて様々な書道展覧会を目にすることができる。 普段の半紙のお稽古とは別に大きな紙に書作品を書き出品するということはいつも以上に大変な作業となる。ここで疑問を投じてみたい。あなたはなぜ書品を書いて出品してるのかということを。果たしてどれだけの人たちが明確な答えをもちあわせているだろうか。書人にとって書作品とは何か。答えがない問いに迫る。
書人にとっての書作品とは何か
和の芸道の中に書道があるが、他の美術や芸術と比較しても書道は世界展開されていない。アジアを中心としたごく限られた一部の国だけで発展しているだけで、 歴史を見ても書道が芸術として認められるまでにはかなりの年数と月日を要している。そのため世界的に見ても他の芸術より書道を嗜む人は少ない。創る、描く、想像する。 数ある芸術や芸道と何ら変わらないものであると思うが、 書人にとっての作品とは一体何だと言えるのだろうか。
あなたはなぜ書作品を書き出品しているのだろうか。長く書道に携わり作品を出品されている方においても改めて聞かれると何と答えていいのかわからない人が多いのではないだろうか。書作品を出品する目的は何か。何のために誰のために私たちは書作品を書き出品をしているのだろうか。書道と言っても学び方ややり方は実に多岐に及んでいる。書道を習っている人でも書作品を書いて毎年のように出品している人もいれば、 習っていても書作品は書かず出品しない人もたくさんいる。同じ書道でもここで大きな区分けがされることとなるが、書作品を書くということは普段以上に時間・お金・体力が必要となる。人間は基本的に楽をしたい生き物である。書作品を書くことが人生の生きがいや楽しみとなっている人もいれば、一方でこれがあることによってストレスだと捉える人もいる。 日常生活+αとなるため負荷がかかることはどうしても避けたい。人間が道楽を好むのはいたって自然なことと言える。書道が上達すればするほど必然的に書く枚数が増えていくため、より一作仕上げるまでには大変な作業となる。書作品を書く人たちは苦労てんこ盛りの中一体何を目指し書作品を書いているのだろうか。
作品というもう一人の自分
今年もたくさんの書道展覧会に関する案内が自宅に届く。なぜ書道を習っている人が書作品を書き出品するのかという問いは、山登りをする人に、“なぜあなたは山に登るのですか?”という 質問を投げかけるようなものに等しい。 大抵の場合、“そこに山があるからだ。”という至ってシンプルで定番な答えが返ってくるのではないだろうか。
芸術において「作品」と呼べるものは数多い。花を生けて見せ芸術の域まで高めてみせた生け花。 幼児から大人まで世界中でたくさんの人が身体を通じて楽しむことができる音楽。 奏でる音色とリズムが施されることで一つの作品となる。 芸術とは個がもち合わせる独創性や感性が網羅された時高く評価されることも多いが、一歩踏み外せばどちらにでも転ずる可能性が非常に高いものでもある。 幼児から大人まで幅広く全世界共通の芸術とは絵画(アート)がNo.1なのではないだろうか。
これらの作品を世に生み出しているのは人間である。 最近では、デジタルアートも普及しているが、やはり人間の手によって生み出されたものには温かさやぬくもりを一際感じることができる。 どんなに話が苦手な人であっても、絵を描かせるととても力強い個の主張を放つ作品を時折目にすることがある。まるで、作品が個の内なる主張を代弁してくれているかのように感じることができる。作品とは、時に自分の分身となり代わりに主張してくれる相棒のようなものであろうか。個が持つ内面を外面に開放することで、時に自分という人間を認め保っているようにさえ感じることがある。作品とはとても魅力的で心強い味方と言えるのではないだろうか。
展覧会と公募展の違い
「作品」と呼べるものには、必ずその作品を世に生みだした者による主張が入っている。 なぜこれを書こうと思ったのか。どうして今このタイミングなのか。どのようにして表現したいのか。何を強調したいのか。この主張を分かりやすく例えるなら人間の感情に置き換えることで表現の幅をより一層広げることができる。 感情には大きく分けて2種類ある。喜びや感動を意味する【プラスの感情】と恐れや悲しみや怒りを意味する【マイナスの感情】。 これらを選んだ素材に取り入れることで作家の主張をよりハッキリすることができる。また同時に見る側にとってもわかりやすく伝わりやすい作品と言える。作品の横側に人が立ち、自分の作品の解説をしなくてはいけないようでは、作品に対する主張が足りないことを意味している。 そこには作品だけがある。その作品だけを見て作家が何を主張しようとしているのかわかるくらいのものでなければまだまだ「作品」と呼べるものではないのかもしれない。作品を世に生み出している人たちは、大抵の場合苦しんでいる。それだけ人の心を動かす作品を世に出品するということは簡単なことではないからである。
書道展は主に2つに分けることができる。 「展覧会」と「公募展」の2つがありそれぞれにおいて特色が異なる。
「展覧会」とは、1つの教室(社中)において定期的に開催される展覧会のことである。これを社中展と呼んでいる。在籍する生徒一同たちによる展覧会のため受賞などは基本的にない。あくまでも日頃の成果と学びを発表する場として設けられていることが多い。
「公募展」とは、全国から作品を募集するスタイルとなるためたくさんの出品点数が集まる。そのため作品サイズや展示会場など 大きな地で開催されるケースがほとんどとなる。また、受賞もあるため自分の力量を試したい人やより一層力を入れてやりたい人たちが集まる。
「展覧会」と「公募展」を同じものだと思っている人も少なくないが、これらは全くの別物と考えるべきである。しっかり区別をしておく必要がある。
人間の本能に従うということ
書人がなぜ作品を書き出品をするのか。人間とは何かを成し遂げたいという思い以上に、何かを残したいという遺伝子レベルの本能が強い生き物なのではないかと感じている。例えるなら、人と人が愛し合い出産をして子孫を残すということは、人間が生まれながらにもち合わせる生存本能が働いておりそれはごく自然なことといえる。では作品はどうだろうか。この世にまだないものを自らの力で一から生み出すという作業は簡単なことではない。あの作品どこかで見たわ!は二番手作品という類似品を生み出したに他ならない。年間に書作品を何作も書いている人は、一年間に何度も出産をしているような感覚と等しい。出産は命がけだということを忘れている人も多いかもしれないが、生命の誕生こそ神秘的という言葉が似合うものはそう多くはない。 痛みと苦痛の先に喜ばしいものが待っているのであれば人は頑張れるが、作品には不安定さと不確実性要素の方がはるかに大きいように感じてならない。
“ 時代の危機に迫った時、再起をかけるのは文化と芸術だ。”
という言葉を聞いたことがある。 残したいと願う人間とそれを形にすることができる芸術(アート)の組み合わせは実はとてもマッチしている。互いが互いを助け合い必要としあっているからこそ成り立っている。だからこそ、時代がどんなに変化しても変わるのはその時代を生きている人間の顔ぶれだけなのであり、自然の摂理や原理原則は何一つ変わっていない。ここに芸術が歴史上長く人から愛される理由があるのではないだろうか。芸道や芸術が人に与える影響ははかり知れない。誰かが誰かに影響を与えている。作品を世に生み出すことで、まだ知らないもう一人の自分に出会えるかもしれない。