【初心者必見!】みるみる書道が上達する3つの方法
(書道上達する人が取り入れている学習法とは。)
書家
片岡 青霞
プロフィール
10歳の頃から書道を始めて早28年。 これまでにたくさんの書道を学ぶ人たちを見てきたからこそ思うことがある。書道が上達する人たちにはもって生まれた天性の才能があるのか。いや、そうではないだろう。人間が本来もちあわせる才能や能力はそこまで大きくは変わらないだろう。同時に、上達する人たちにはある共通点があるのではないか。 その共通点を自分も身につけていくことで、 みるみる書道の腕が上達していくのではないかと考える。その共通点に迫る。
書道上達する人たちが知っていること
「今よりも上手くなりたい。」そう思って小学4年生の時に書道教室の門を叩いた。地元では有名なスパルタ先生。近所にはとても優しいおじいちゃん先生がやっている書道教室もあったのに、あえてそこには行かず自分から懇願しスパルタ教室へ行くこととなった。やるんだったらとことんやりたい。負けず嫌いだった自分の性格は、スポーツだけに通ずるものだと思っていたが実はそうではなかった。
当時通っていた書道教室には、たくさんの生徒さんが出入りをしていた。人数は定かではないがたぶん300〜400名の在籍数はあったと思う。これは自分が通っていた書道教室に限ったことではなく、 昔の書道教室というのはほとんどがこんな感じだった。書道をやっている人口も多かったので、クラスの中には必ず上手な子たちが何人もいることとなる。今よりも上手くなりたいの一心で必死だった私は、 教室に入ると必ず先生の近くか上手な子の隣に座るようにしていた。この時から、今よりも上手くなるにはどうすればいいのかを自分の頭で考え自然と行動を共にしていた。今思えば、毎回この子私の隣に座るな。って思われていたかもしれない。 上手くなりたかったので上手な人の側に近づく必要があると思った私は、大人になってからも上手な人を見つけては隣に座って書道をしてきた。上手な人たちは自分に無いものをもっている。何か知っているに違いない。共通点が必ずあるはずだと信じてやまなかった。誰も教えてくれなかったので自分で探るしか方法が無かったとも言えよう。書道が上手くなりたいという気持ちが自分のことをここまで突き動かすことになるのだからこんなに面白いことはないだろう。
1.見識力を高める
書道は書くもの。半分正解で半分不正解としよう。書き手側からしたら書くものであるが、鑑賞する側からしたら見て楽しむものと言えるだろう。 書道を学んでいる者は、大半が書くことに夢中になっている。 そんなことは当たり前の話に聞こえるが、一つ「書く」ということを紐解いてみると書道を学ぶ者においては古典法帖をもとに書道の学習をし書いているということが言えるだろう。
この古典法帖を臨書するということは、筆を持って墨をつけ半紙に書くという以前に無意識にやっていることが一つある。それは、古典法帖を見て視界の中にいれるという行為である。目を通して視界の中に入れたものが自分の腕を伝って筆に宿り、その状態が可視化されたものが半紙臨書となって目の前にあらわれる。 ここで、一番最初に行なっていることは書く行為そのものではない。目を通して法帖を見るという行為である。見識力とは、物事を深く見通す力のことであり優れた判断力のことを指している。 自分ではよく見ていると思っていても見落としは常につきものであることを古典法帖がやさしく教えてくれている。目の中に入れたものが腕を通じて可視化されるのであれば、 自分の目の中に何を入れるのかを厳しく選別する必要があるということだ。 見識力を高めるには古典法帖を見て人が気づかないことに一つでも多く気づくことができる力が必要である。 何となく法帖を横に置いて眺めていてもわからない。鋭い眼力をもって読み取ろうとすることがとても大切である。
2.豊かな創造性が心を育む
自分が書こうとしている素材は、過去に誰かしらが取り上げて書作品として発表していることになるだろう 。大半の場合これに当てはまることとなり、それは展覧会や公募展を見ればわかることだろう。どこかで誰かが先に書いた作品を自分が後番手として書こうとしているのだから、どこか雰囲気が似ていたりどこかで見たような誰かのあの作品にそっくり!ということは不思議ではないのかもしれない。しかしこれでは、作品を書く上で自分がここにあらず状態。虚しさだけが心に残ることとなるだろう。
人間の顔が一人一人異なるように作品も一つひとつ異なる。たとえ同じ素材であったとしても然り。全く同じということは考えられなく書き手が変われば作品も異なる。素材に命を吹き込むことで初めて自分の作品となる。書作品を書く前段階としての「草稿」(そうこう)をするが、この草稿を一つ書くにしても様々なアイディアと発想が必要になってくる。この豊かな創造性を育むには多くの芸術に触れることが何よりも必要だ。音楽によるリズム感。絵画によるタッチ。舞台による息づかいやリアル。これらの中には書道で必要な要素がたくさん詰め込まれており、書作品を書く者に常にたくさんの気づきとヒントを与えてくれている。他の芸術に触れることによって培われた感性が、体を通じて紙面に現れる。 書道が上手くなりたいのだから書道だけやっていればいいという偏った考え方は上達するものたちの中では一切通用しないのである。
3.枚数を積み重ねる
「最近、書いてるでしょ?」あるお稽古の時に、師匠からこのような言葉を掛けられた。自分から言葉を通じて伝えなくても、たった一枚の半紙が全てを物語ってしまう。先生はエスパーなのか??説が浮上したが単純に見透かされているということを指し示している。こんなに恐ろしい事があっていいのだろうかと思ったが、長いこと書道に携わってる人であればこのような経験が一度や二度あるのではないかと思う。そして、この時の私はものすごく書いていた。半紙の臨書を徹底していた時期で暇さえあれば書いていた。当時を振り返ってみても、この時の自分の中にあったのはまたしても「今よりも上手くなりたい。」「先に歩みを進めている人たちに追いつきたい。」この気持ちが一時も離れなかった。
書道が上達してくると必然的に枚数を書くことになると言われているが、これは真実です。枚数を書こうと思わなくても積み重なってしまう理由は、たった一回でも自分がもっと書けるという経験をしたことがある人たちに必ず起きる現象である。どこか自分の中で覚えている。もっと私なら書けるよね。 過去の自分の作品と比較して何か違うなって思うから今書いた作品をすぐに潰せる。自分の中で納得はできないものを丁寧に畳んで残しておこうなどという考えは上達する人たちにはそもそも無い。発表する作品は一点だけなのだから、この一点を生み出すために枚数がかさんでしまう。 積み重ねた枚数は決して自分のことを裏切らない。必ず身となって力となってくれる。上達する人達はそう信じている。だからいつもやれる。
今まさに成長中している時。人は自分の変化に気づけない
書道がみるみる上達する人たちはちょっとしたコツを知っている。そこには生まれもった天性の才能や能力ではなく、ある共通点を持ち合わせていることが考えられる。 書道という書くことに夢中になってしまうことも、一番最初は目を通じて視界の中に文字が入ることから始まっている。書くという行為だけに没頭するのではなく、見識力を高めることは書道上達に欠かせない存在となっている。書ける人が見えるようになるのではなく、見える人が書けるようになる。小さな日常での気づきを大切にしていこう。
書は人の上に成り立つ。人としての人間的成長なくして書の成長はない。書道が上達する人たちは書道だけをやっているのではなく、他の芸術に触れる機会をもちあわせている。一見関係ないと思えるようなことが、巡りめぐって身近なものへと変容を遂げる。 書き込みの枚数は、単に自分の腕を高めてくれるということだけではなく目標に向かってコツコツと積み重ねた結果は自信へと繋がっていく。小さな積み重ねが後ろを振り返ればやがて大きな成果を生んでいる。随分遠くまで来たなと感じることができるのは成長中の時ではない。何かに夢中になり取り組んでいる時というのは、自分の成長には気づけないものである。
書道の腕を磨くとは途方もない道のりに感じることもある。自分の変化になかなか気づくことができないものであるからこそ、仲間の力を借りる必要性を実感している。コツコツ積み重ねよう。自分にとって実りある綺麗な花を咲かせよう。