見学・体験レッスンはこちら

書道作品は最初から最後まで、本当に本人が書いているのか

書道作品は最初から最後まで、本当に本人が書いているのか

(本人が書いたと証明する唯一の方法。)

書家
片岡 青霞
プロフィール


 書道展覧会会場で違和感を覚える作品を見かけたことはあるだろうか。その数は年々増加傾向をたどり、書道を学んでいない人が見ても明らかにおかしいと首を傾げたくなることも少なくはない。近年では、昔には無かった宿題代行サービスへのニーズも高まっているそうだ。需要と供給のもとでサービスは成り立っている。書道作品を見て思う。“これは最初から最後まで本当に本人が一人で書いた書道作品なのであろうか”。「共同作業」では無く一人で最後まで書ききっている作品は一体どの程度あるのだろうか。本人が書いたことを証明する唯一の方法を交えて紹介する。

本人が書いたとされる書道作品

自宅で書いた書道作品を宿題として提出する。全ての書道作品は本人が最初から最後まで書いたものとする。

 年間を通じて全国各所にて様々な書道展覧会が開催されている。子どもの場合、夏休みや冬休み明けに宿題として書道作品を提出することが多い。 最初から最後まで本人が一人で筆をとり書いた作品かどうかは不明であるが、学校側としては自分で持参をしたものに関しては、本人が最初から最後まで一人で書いた書道作品として受け取るということになっているそうである。これは、担任の先生が見ても明らかに本人が書いていないと感じた作品であったとしても、本人が自ら持参をしたものに関しては全て本人直筆の書として受け取るということである。書道作品を例として挙げているが、 他にも絵画、工作、自由研究、 読書感想文など。全ての提出する宿題において同じことが言える。

 本人が書いた書道作品というのは、最初から最後まで本人一人が筆をとり書き終えた作品のことを指している。なので、先生や親御さんが子どもの背後にまわり一緒に筆をとり書いたものや部分的に同様のことをしたものに関しては、本人が最後まで書いた書道作品とは言えない。書道作品に記載されている氏名はお子さんのものであったとしても、共に筆をとり書いた箇所が作品の一部分にでもあるのであれば、これは「共同作業」と呼ぶべきであろう。そう考えると、本来であればお子さんの氏名の横に先生や親御さんの名前を施す必要がある。勿論、そんなことをする者は一人もいなく、書かれているのはお子さんの氏名だけである。たとえ「共同作業」の作品であったとしても記載されているのは当たり前のようにお子さんの氏名だけなのである。
 
 全てではないが、「共同作業」の書道作品は実に多い。ほんの少しぐらい手を加えてもわからないだろうという淡い気持ちは誰が抱いてもおかしくないものかもしれないが、見る人が見れば一目瞭然だということは念頭に置いておく必要がある。ましてや書道関係者や講師をしている者でそれを見抜けずわからないのであれば、単なる恥であることを覚えておこう。

一人当たりの子へかける教育費

子ども1人における月々の習い事費用の平均は、7,000円~54,000円。公立・私立・家庭環境(兄弟数、教育方針)によっても異なる。

 2023年。施政方針演説にて、「異次元の少子化対策」として打ち出されたものは早々に「従来とは次元の異なる少子化対策」へと名称変更となり、すでに先行きが不透明であることは国民の空気感からも感じ取ることができるだろう。異次元という言葉が一人歩きをし、これまでかつてない程の政策をしてくれるのだろうと期待だけが膨らむも、いつもと同じように代わり映えのない日常がこれからも続いている。そもそも日本の少子化は約30年前から問題視されるようになってきたことをみれば、 課題や問題に関して30年間曖昧な検討をし続けてきた結果の積み重ねによる現状であると考えられる。ゆっくり進行したものに関しては回復もゆっくりとなる。日本では少子化問題に対して真剣に向き合おうとしていないが、やっている振りをしないとクレームやバッシングが上がってきてしまうため、一応対策としてやっているフリを演じているだけに思えてならない。根本から問題解決をしようとは思っていないのである。30年間、社会的要因を大きく含んだ問題と真正面から向き合わなかったツケが今私たちの目の前にある。

 少子化ともなれば、一人当たりの子に対する教育や習い事へかける費用も多い傾向となる。公立・私立・家庭環境によっても様々ではあるが、子ども一人にかける月々の習い事の費用は平均7000円〜54,000円となっている。一人の子へかける金額が多くなるということは、親御さんのお子さんへ対する期待も昔に比べてより大きくなっているということに繋がる。 一人当たりに対する可能性や期待をかけることは大切なことではあるが、この期待する気持ちが間違った方向にはいかないでほしいと願っている。誰だって自分の子が受賞したら嬉しいに決まっている。今回受賞したのだからまた次も。その次も。この大人の都合による間違った気持ちが子どもへ向くことになると、最終的に被害を被るのは他の誰でもないお子さん本人であるということを忘れないでほしい。

本人が書いた書道作品と証明する唯一の方法

 今年も席書大会が日本武道館で開催された。 幼児から大人までの予選を通過した者が一同に集い、 その場で書道作品を書くというものである。この席書大会では、準備から片付けまで自分一人の力で行う。 静かに張り詰めた会場の中、筆や墨の準備をし心を落ち着かせて大太鼓による開始の合図を待つ。出場者は24分という限られた時間の中で、各自の課題をお手本無しで2枚だけ書く。どちらか一方の作品を提出することとなるが、作品選出は自分で決めなくてはいけない。これは例え幼児であってもルールは同じである。書いている途中で紙面に墨が滲む。拭き取り作業も自分でやりながら時間内に作品を仕上げなくてはいけない。普段と異なる環境の中、周囲にはたくさんの知らない人たちが自分のすぐ隣で書いている状況。自分のペースで書きたくてもこの周囲の空気感にのまれ緊張していつものように思うように筆が動かないこともあるだろう。それでも時間内に書かかなくてはいけないことを想像してみてほしい。年齢を問わず、皆が同じ条件で最後まで自分一人で作品を一枚書き仕上げる。 勿論、「共同作業」はできない。一切の不正をやりようがない環境のもとで書かれた書道作品は、誰が見ても文句のつけようのない本人直筆の書道作品と言えるだろう。

 小学生の頃、自分も何度か予選に参加したことがある。 当時、学校の代表として選出され席書大会と同じルールのもと、学校の体育館に他校代表者と一同に集い書道作品を書き上げた。冬の体育館はとても寒く案の定思うように筆など動かなかった。書いた素材文字は「満天の星」。記憶がやや曖昧ではあるが、振り返ると席書大会の予選に参加していたのだと改めて気づいた。その後声はかからなかったので予選を通過することはできなかったが、今ではとても良い思い出となっている。

子どもに限らず大人にも言える大切なこと

多くの人が作品を目にするのは会場内。誰もそれまでの工程を見ていないし知らない。

 書道作品は本当に本人が最初から最後まで書いているのか。席書大会のようにその場で本人が一人で書道作品を仕上げなければならないのであれば、誰が見ても本人が書いたものだと言える。しかし、その場で書いていないもの、持参したものに関しては正直なところ分からない。受け取る側は、明らかに誰かの補助が入っていると思えるものであったとしても、本人が最初から最後まで書いたものとして受け取っているのである。

 子どもの話を中心にしてきたが大人にも同様のことが言える。子どもの場合、大人による間違った援助によって発生するが、大人の場合、大人による間違った援助・事情によって発生することがあるのだという。子どもに関してなら想像がつきやすい。子どもの背後にまわって共に筆をとり一緒に書くということになるが、大人の場合とは一体どういうことを指しているのだろうか。
 本人が作曲したと公表していたが、本当はゴーストライターが作曲したものだった。ゴーストライターは正体を明かさないため基本的に世に出ることはない。さすがに書道作品に関してそれはないですよね。と、ほとんどの人たちがそう思っている。自分が書いた作品であるという証のために書作品に押印する。言い換えれば、当事者が最後までたとえ書いていなくても本人の押印があるのなら本人が書いたという証明をすることができるものということになる。大人の事情だろうか。数千万単位の金額が動いた作品なのに、まさか本人が最初から最後まで書いた作品ではないとは誰も思うことはないだろう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次