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【書歴30年】これまでの書道の歩み

【書歴30年】これまでの書道の歩み
(10歳からはじまった書道人生とは。)

書家

書家
片岡 青霞
プロフィール


 子どもの頃からはじめた書道も気がつげば30年の月日が経過した。時の流れは早いとは聞いていたが、実際の経過時間はさらにあっという間に感じている。書道をはじめた当初は、まさかこんなにも長く自分が書道をやるとは思っていなかった。そう思う反面、どこかでこのような人生を歩むのではないだろうかということを小学生ながらにぼんやりと想像する自分もいた。今回は、この30年間どのような書道人生を歩んできたのかこれまでのことを回想してみたいと思う。

はじめての書道との出会い

まだ書道を習っていなかったが、クラスの代表で書道展に半紙作品を出品することになった。「取り入れ」という四文字を書いた。ひどいものだった。Photo by Pexels

 書道との出会いは小学3年生、当時9歳。小学3年生から学校の授業では書写がはじまるが、新しく担任になった北條先生は学校の先生を勤める傍ら書道を学んでいる方だった。先生は、明るく親しみやすいだけでなく、時には厳しくわたしたちと正面から向き合ってくれた。子どもたちの個性を大切にし、尚且つみんなのやる気を引き出す才覚のある先生だった。そんな大好きな先生が好んで学んでいるものにわたしは興味関心を覚えた。学校でのお習字の時間は楽しかったが、わたしの書く書作品はお世辞にも上手だとは言えないものだった。自信のない弱々しい線を引いていたにも関わらずそんな私の作品を見て先生は褒めてくれた。30年前、自分がどのような書作品を書いていたのか鮮明に覚えている。もっと上手くなりたい。そう思わせてくれる夢中になれそうなものをわたしは先生から与えられた。書道との出会いの前に、北條先生との出会いがあった。

精神を鍛えられた10代

  小学4年生、当時10歳。早速、書道教室探しを始めた。昔は今と違ってスマートフォンも無いため、口コミで情報を得るしか方法がなかった。同じクラスで書道教室に通っている友達からどのような書道教室なのかを聞き、最終的に3つの候補の中から絞ることとなった。一つ目は、近所で通いやすい優しいおじいちゃん先生の教室。二つ目は、優しい女性の先生が教えてくれる教室。上手な子も多いが起立して書くスタイルの教室。三つ目は、超絶スパルタな教室。厳しくて有名だが受賞者の輩出が多い。内容を聞いてどこにするか決めることになったが、わたしの中では既に決まっていた。上手くなりたい。やるからにはとことんやってみたい。自ら三つ目の教室に通いたいことを親に伝えた。これが、秋山先生との出会いへと繋がる。
 
 厳しいことで有名なのに、教室にはたくさんの子どもたちが通っていた。毎回のお稽古は一時間。教室に着いてもすぐに入室は出来ず玄関先の外で立って並んで待つ。暑い夏の日も寒い冬の日も同じで、それに加えて時間がきたから入室できるというものでもなかった。前のクラスの生徒さんの作品が仕上がらないと座る席がないため中々入室できないようになっていた。こんな時は、先生のご機嫌が最大限に最悪なことを意味する。上手く書けない生徒の筆をもって半紙がビリビリになるくらい何度も同じ線を書いて最終的には筆を投げる。文鎮で殴ろうとする素振りを見せる。先生に怒られ泣いている生徒さんを見るのは慣れたものだった。今となれば、社会問題となってしまうかもしれないが、昔の厳しい先生の教室というのは先生の怒号が飛び交うことなど日常茶飯事であった。こんな中で書作品を一枚仕上げなくてはいけないため、毎回のお稽古では緊張の連続でお腹が痛くなることも珍しくなかった。

 先生からは、礼儀と礼節を学んだ。挨拶をはじめとして人としてあたり前のことを重んじる方だった。単に厳しいだけではなく、たまに見せる笑顔は穏やかで愛情を感じれるものがあった。緊張感のある毎回のお稽古の中でわたしはたくさんのことを学んだ。人の空気感や洞察力、察知能力は自然と身についた。先生が何を考え、今何の言葉を発しようとしているのか、小学生ながらわかるようになっていた。怒られても多少のことでは諦めない強い精神力を鍛えられた。これがのちに自分の強固な基盤となる。

働いたお金はすべて書道に注ぎ込んだ20代

本業+副業のダブルワークをしていた。それでも足りなくて生活はカツカツだった。Photo by Pexels

 高校卒業と同時に18歳で上京。その後、10年間は埼玉・東京と引越しを三度経験した。上京してからお世話になったのが、東京にある日本教育書道芸術院であった。この学院は大溪洗耳先生が創立した学院で、先生が亡くなり20年以上の年月が経つが今も学院は存続しており書を学ぶ人たちがたくさん通っている。大溪先生は破天荒な人柄でも知られており、書籍「戦後日本の書をダメにした七人」が有名である。

 この学院では、主に短峰と超長峰を使用した書作品書きを学んだ。超長鋒の多字数書は通常よりもかなり文字数が多いのが特徴である。子どもの頃とは全く異なる書道の世界。わたしは学ぶ楽しさを感じていた。その一方で、この学院に通うことで一番の困り事に金銭があった。この学院は、通常よりも金銭がかかる部類に入るため仲間と共に書道を学ぶことは楽しかったが、過去一金銭で苦戦していたのがこの時期であった。都内一人暮らし仕送りも親の援助も一切無かったわたしにとっては、日々の生活にゆとりがあるとは決して言えなかった。同期が公募展に次々と出品しているにも関わらず、わたしは中々それが出来ずにいた。時に、お月謝を滞納してしまうこともあった。その度に事務局から自宅へは催促の通知が届いていた。こことは別に筆耕も学んでいたため月々のお月謝は26,000円ほどになっていたと記憶している。辞めてしまえばいいのに、なぜか書道を辞めようとは思わなかった。“服は着ていればいい。そのかわり、毎日500円玉貯金をして紙を買え。”と言われていた。たしかに、服は着ていないと問題である。警察沙汰にならない程度にはしておきたい。そんなツッコミを自分に入れながら、仕事と書道に明け暮れる日々を送っていた。

 この学院で、開塾指導講座を受講した。わたしは開塾するきっかけをいただいた。ここで学んだたくさんの生徒さんが全国で書道教室を開塾し精力的に活動している。

0からスタートしたいと思えた30代

 上京してから10年後の28歳。地元の栃木県宇都宮市へ帰省し書道教室を開塾した。町中にある小さな書道教室である。少しずつ生徒さんが訪ねてくれて新たな出会いと共に書の学びがスタートした。しかし、ここで一つ疑問に感じることがあった。それは、自分が学んできたことと学んでいるものをそのまま生徒へ提供するべきかどうかという点であった。これはつまり、破格な金銭を自分が教えている生徒へ提示することを意味していた。わたしが所属していた日本教育書道芸術院は全てにおいて金銭が破格であった。公募展への出品料、お手本代、書道用具、雅号登録、師範取得のほぼ全ての金額が一線を超えていた。自分が金銭で苦しんできた経験があるため、体制としてはもっと健全でクリアなものであるべきだと考えた。30代に差し掛かる手前、これまで積んできたものを捨てることは惜しいと思う人も多いかもしれないが、全てを捨ててでも再度書道を学び直してみたいと思うようになった。そう思えたのは、これまで自分一人の学びのためにやってきたことが、これからはそうではなくなるということを意味していたことが最も大きかったように思う。

 わたしの場合は、単に楽しく書道をやるということではなく、自分を高めてここからさらに力は引き上げてくれるような人物を師匠としなければいけないと思った。そんな人物は誰なのかと考えると、柿沼翠流先生しかいなかった。柿沼先生の講演を傾聴し人柄に触れた後、わたしは早速手紙を書いた。先生の目に触れるもののためペン字が書けなければいけない。思うように書けず何枚も便箋を破り捨てて書き直した。手紙文章の誤字脱字はないか、住所相違はないか何度も指差し確認をした。この世界では、よそで書の年齢と経験を重ねてきた者はモノにはならないとされている。承知の上ではあったが、そこには染まりたくないと思える反発心と情熱があった。新たな学びのスタートは全てが新鮮だった。同じ書道でも全く別のものをやっている感覚、筆さばき。毎回のお稽古は皆よりハンデがある分、見るもの触れるものを一つでも多く吸収しようと必死であった。朝方まで作品書きをしていて出来なかった日も、追いつけの一心で臨書をしていたあの頃も、ついこの前のことのように思える。0から学んでみたいと思わせてくれるような経験はそうは無い。ましてや、同じ書道をやってきているのに全てを捨てて0から学びたいと思えたあの感覚は、もう無いのではないかとさえ思える。濃厚な30代だったと改めて感じている。

これからの40代

人生を振り返ることは、これからの未来を考えるうえでとても大切な時間だと考えている。Photo by Pexrls

 自分が年齢を重ねているのだから、幼い頃にお世話になった先生方も当然のごとく歳を重ねる。秋山先生、大溪先生、柿沼先生と皆天国へと旅立ってしまった。これだけ破天荒な先生方に触れているのだから、わたし自身がやや変わり者であることは仕方がないように思える。

 今、わたしは40代へと突入した。こうして30年間の書道人生を振り返ると、書道を通じてたくさんの仲間や生徒さんとの出会いがあった。どれもいい思い出として振り返ることができる。これまでやってきて良かったと思えたら全て花丸である。わたしはたくさんの人の影響を受けてきた。自分がこれまでに人を通じて得た良い影響を、今度はわたしが書道だけではなく何かしらの形を変えて人に与えることができればと考えている。例え、既に与えてくれた人へ恩を返すことができなかったとしても、誰かを助け恩を通じて人は繋がっている。「恩恵は全て次の者へ。」

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